[文学] 内田百閒の 「私」
数日前、 わたしは少し内田百閒であった。参照:
» 生前から育てる人工無脳
» ぬいぐるみに人工無脳
百閒の小説は、 「私は」 ではじまるものがとても多い。 半分ぐらいはそうではないか。 主語を省略できる日本語のセンテンスにおいて、 それも作品の冒頭で 「私は」 と宣言されると、 以後の展開が西欧的自我というようなものに支えられた明晰な運びとなることを予想したくなるのであるが、 いや、 予想なんかしませんよね、 百閒の読者ならすでに承知のように、 以後の展開は、 たいがいは夢の中の出来事であり、 あるいは自我の混乱である。 どうして百閒の小説では、 「私は」 が自我の混乱を告げる言葉になってしまうのだろう。 そこでわたしとしては、
私というのは、 文章上の私です。 筆者自身のことではありません。 ── 「蜻蛉玉」
こんな宣言ではじまる作品に出会うと、 おお、 百閒の 「私」 とは何か、 この作品こそ問題を解く鍵を与えてくれるのでは、 と意気込んでしまうのであるが、 なんのことはない、 ここで描かれているのは 「文章上の私」 などではなく、 多少デフォルメしてあるにしろ百閒の自画像であって、 わたしの疑問はあいかわらず解けない。
