[文学] 詐欺としての言論
最近は調べ物といえばネットですませてるが、 昨日はひさしぶりに図書館でないと片付かない件あり、 ついでに笙野頼子の 『てんたまおや知らズどっぺるげんげる』 と 『水晶内制度』 を借りる。以下は、 『てんたまおや知らズどっぺるげんげる』 の表題作から。
ところでいきなりご説明申し上げますが、 (…) こういうくだくだしい訳の判らぬ記述というものはですねえ、 人間の内面体感の生々しさや思考の流れの奔放さというものを自在かつ正直に記述するという文学的アクロバットへの試みというわけで、 そのようにして起こった事実を 「狂人日記」 的に検証することは結局、 ありがちな日常への緊張感を欠いた、 つまり 「平板」 な作品を防ぐ効用ばかりか、 記憶があたかも丸ごと事実であるかのような、 判り易いインチキをでっちあげる事をも、 避ける有効なやり方というわけでございますのです。 つまり思い出す事と書く事、 そして出来事、 等を混在させて人間の内面の重層性を判り難いなりに、 そのままぶつけてしまおうという技法のひとつ、 とはいうものの基本的には自動書記風にならないよう、 常に緊張感を持って意識をセーブする事もまた必要なわけでございまして ──。
ポイントは 「正直」 というところにあると思う。 ものごとを正直に説明しようとすれば、 笙野頼子のようにくだくだしく重層的にならざるを得ない。 それをさも簡単であるかのように説明するのが、 われわれの日常というもので、 言ってみれば、 言葉とか言論とか文章というものは詐欺の一種、 さらに言えば暴力の一種に違いない。
ついでだが、 「狂人日記」 とあるのは魯迅の 「狂人日記」 だろう。 じつは数日前、 青空文庫にある 「狂人日記」 のテキストをカットアップしてみたのだが、 結果は思わしからず。 もともと、 常人のテキストを切り刻んで狂人に仕立てるのがカットアップなのだから、 狂人の告白を切り刻んでも効果は乏しいか。
