2005-06-19
[]  公は私に背く
今朝の朝日新聞、 読書欄。
野口武彦が加藤典洋の新著 『僕が批評家になったわけ』 を取り上げている。

批評は 「私的な個人」 から出発し、 「この私的な感じを公的な感じに置き直す」 ことを旨とする。 もちろんこの批評像は、 著者の持論である 「私利私欲の上にどう公共性を築くか」(『日本の無思想』) という問題意識にぴったり呼応している。 ミーイズムを罵倒すべからず。 私利私欲こそが戦後とポスト戦後を一筋つらぬく太い線だとする主張である。

きのうのエントリーで、 「自分あっての世間」 と書いたとき、 じつはひそかに 「ユリーカ!」 と思ったのだが、 加藤典洋はとうに知っていたわけだ。

古語に 「公は私に背く」 とある。 「公」 は 「八」 と 「厶」 の会意。 厶 (わたくし) は 「私」 の古字、 一説に八は 「背」 の古形。 日が暮れてなお遠い道のりをこの批評家は進んでゆこうとする。

個人が社会にそむくのではない。 社会が個人にそむいているのである。 昨日、 今日どころではない、 2000年か3000年前にすでに言われていたことなのだ。

加藤典洋、 48年生まれ。 名前を聞いたのがニューアカ全盛時代だったので、 てっきり彼らの世代だとばかり思っていたが、 全共闘/団塊世代だったのだな。 ニューアカ世代に突き上げられつつ自己を形成した全共闘世代というポジションは悪くない。 いや、 加藤の本を読んでないので、 まだ本当のところはわからないんだが。

[追記]
よくわからないまま追記だが。
安保世代の一部論客がそれぞれの仕方でニューアカデミズムを受け止めたのに対し、 全共闘世代はニューアカを無視した。 後輩 (ニューアカ世代) の追い上げを受け止めて自己形成した全共闘世代というのがいるとすれば、 貴重なことではないか。 本日のわたしの仮説によれば、 その例が加藤典洋。 結果はどうなりますか。
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