今月初めに読んだ。 このごろは本を読んでもすぐ内容を忘れてしまうので、 評点は読後感だけが基準だが、 幼少時を振り返ったエッセイ群は上質のハードボイルド短編を読んだ感あり。
今朝部屋を片付けてたらこの本が出てきて、 拾い読み。
戦争に関する音楽をやりたい、 と思った。 今僕の中にはセックスによってもスポーツによってもドラッグによっても過食によっても他の音楽によっても解消されない何かが存在し、 僕の精神を少しでもヘルシーにするものはもう戦争でしかない。 ―― 「DCPRG に関する二番目の企画書……計画の50%」
かつて、 「戦争論」 というのがあった、 ニューアカのおもちゃとして。 東西冷戦構造が崩壊して、 もう現実の戦争は起こらないという安心感の上ではしゃいでいたのがニューアカデミズムやポストモダン陣営の 「戦争論」 だったから、 現実の戦争 (=湾岸戦争) が起こると彼らの戦争論はポシャってしまった。 菊地の戦争趣味はそのポシャったところから始まっている。 戦争はないとタカをくくった者と、 戦争はある、 どうしようもなくあるものだという諦念を踏まえた者。 しかし、 だめだなあ、 おれは。 論を組み立てようとすると、 たちまち筋がよれてしまう。 どうして一気呵成に行けないのか。 資質だろうなあ。 こいつは一生直らない、 直せないだろう。 もうあきらめろ、 バカが。 諦念だよ、 諦念!!
僕にとって戦争とはこうやって反対したり推進したりイデオロギーによってコントロール出来るものなどではなく、 ある日突如として不条理にやってきては否応もなく巻き込まれる悪夢的な存在で、 一度始まってしまったらとにかく命がけで動きまわる以外にすることは何もなく、 とにかく自然に収束するまではそれが続く。 その間には膨大な意思と遂行、 その頓挫と混乱が無秩序に繰り返され、 死ぬか致命的な負傷を負うか、 もしくはかすり傷ひとつなく済む。 そういうものだ。 戦争はいつか来るだろうが、 それがいつで、 どうなるかなんて誰にもわからない。 軍事アナリストであろうと大統領であろうと役には立たない。 僕は戦争をそういうものだと思っている。
でもって、 自分の論 (そんなものがあったのか、 書き始めたばかりなのにもうわからなくなっている) のことはあきらめて、 もう一箇所引用。 72年に放送された 「モンティ・パイソン」 で、 お婆さんが意味もなく爆発してしまうシーンを紹介して曰く、
これは72年当時、 大きな社会問題であった IRA (アイルランド共和国軍) による爆弾テロのことを扱ったギャグだと言われている。 お婆さんが突如爆発することに、 ビックリして面白くて酷い。 という以外に何の意味があるのだろうか? 社会派といえば、 シリアスに政府を告発するロックばかりが存在し、 お婆さんが突如爆発するような音楽が存在しないのは何故なのだろう? 一方でお婆さんが突如吹っ飛ぶ映像の啓示的、 知的な刺激なしには、 シリアスにポリティクスに対峙する激しい音と言葉は、 その誠実な必死さに反して貧困さしか表現できなくなってしまうというのに。 ―― 「DCPRG に関する最初の企画書」
この章などを読むと、 資料のさばき方があざやかで、 菊地はすぐれたドキュメンタリストでもある。 ダンス音楽もジャズも興味がないので、 菊地の作品を聴いたことがないが、 一本ぐらい聴いてみようか。
さあ、 今夜は新曲仕上げるぞ。
