[詩論] 「二百十日」 の構造・続き
前項の続き。拙作 「二百十日」 の元になった文豪作 「二百十日」 の当該箇所は次の通り。 荒木又右衛門のことは知ってるかという問いに、 圭さんが 「相撲取りだ」 と答えて、 問うた碌さんが笑っている場面。
「ハハハハ荒木、 ハハハハ荒木、 又ハハハハ又右衛門が、 相撲取り。 愈 (いよいよ)、 あきれてしまった。 実に無識だね。 ハハハハ」 と碌さんは大恐悦である。
(…)
「そんなに有名な男か」
「そうさ、 荒木又右衛門じゃないか」
「だから僕もどこかで聞いた様に思うのさ」
「そら、 落ち行く先きは九州相良って云うじゃないか」
「云うかも知れんが、 その句は聞いた事がない様だ」
(…)
「そんなに有名な男か」
「そうさ、 荒木又右衛門じゃないか」
「だから僕もどこかで聞いた様に思うのさ」
「そら、 落ち行く先きは九州相良って云うじゃないか」
「云うかも知れんが、 その句は聞いた事がない様だ」
拙作は次の通り。
ハハハハ荒木
ハハハハ荒木
又ハハハハ
又右衛門が相撲取り
あきれてしまった
じつに無識だ
落ち行く先は九州相良
ハハハハ荒木
又ハハハハ
又右衛門が相撲取り
あきれてしまった
じつに無識だ
落ち行く先は九州相良
ご覧のように、 ほとんど盗作のやっつけ仕事だが、 これができたとき、 自分では詩になったと思った。 これはこれで一まとまりの作品だ、 悪いものではない、 と思った。 なぜそう思ったかは、 そのときは考えてない。 できばえに満足して、 そのままポストした。 ところが前項でやったように、 この詩を分析してみると、 「長歌」、 「序破急」、 「AA'BC」、 「起承転結」 といった文芸や音楽のパターン、 しかも複数のパターンに当てはまる。 これはどういうことか。
答は一つしかない。 無意識ではあるにしろ、 自分の中に詩らしさのコード (規則) があって、 拙作とコードの照合が行われた。 その結果、 作者はおおいに満足して、 これは詩であると認めたのである。 どのくらい満足したかといえば、 こんなもの、 ふつうは発表しないでしょと言われそうなジャンク物件を、 ほとんどためらいなく公開してしまうほどには満足した。 というような経過であったと思う。 見かけのでたらめさの裏で、 古典的、 伝統的なコードが動いていたのが面白い。
ただし、 怖くもある。 自分では、 勝手に、 好きなように、 自由に書いたつもりなのに、 じつは昔からのコードにしばられていたという怖さ。
実用的なことを一つ。 いつまでやっても詩のできあがらないことがある。 だいたいはできてるのだが、 何か足りない。 問題の箇所はだいたいわかってる。 あるフレーズや行の前後で何かが不満だ。 しかし、 どんぴしゃりどこで何がどう足りないのかはわからない。 そういう未完成の感じを持ちながら、 まあ90点は行ってるからいいかと発表してしまうこともあれば、 ペンディングにしておくこともあれば、 そのまま忘れてしまうこともある。 もちろん、 試行錯誤しながら完成 (完成したと自覚できる状態) に持っていけることもある。 しかし、 コードの一覧表のようなものがあれば、 経験的、 試行錯誤的にではなく、 未完の箇所や原因を意識的に追究できるだろう。 推敲のシステム化。
「落ち行く先は九州相良」 は、 『伊賀越道中双六』 の一節。 近松半二の原曲では 「落ち着く先は」 だったようだが、 一般には 「落ち行く先は」 として広まったらしい。 渡辺数馬と彼に助太刀する荒木又右衛門が追う河合又五郎の行方を示唆する台詞である。 このことを知って拙作を読むと、 興が減じるかもしれない。 末尾のぶっ壊れ具合が薄められてしまうので。
