[詩論] 樹液の技法
萩原朔太郎の 「殺人事件」。とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃 (はり) の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体 (したい) のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。
しもつき上旬 (はじめ) のある朝、
探偵は玻璃の衣裳をきて、
街の十字巷路 (よつつじ) を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ。
はやひとり探偵はうれひをかんず。
みよ、 遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者はいつさんにすべつてゆく。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃 (はり) の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体 (したい) のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。
しもつき上旬 (はじめ) のある朝、
探偵は玻璃の衣裳をきて、
街の十字巷路 (よつつじ) を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ。
はやひとり探偵はうれひをかんず。
みよ、 遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者はいつさんにすべつてゆく。
全体はあとで眺めるとして、 「ああ私の」 とは何か。 このフレーズは何の役に立っているのか。 どういう機能を果たしているのか。
技法のリストを作ること。
「ああ私の」 がなくても、 この詩は成り立つ。 全体の合理性ということから言えば、 「ああ私の」 は邪魔。 これがあるために、 この句の前後で意味が乱れている。 「私」 とは誰か。 朔太郎自身か。 「おお、 我らが探偵は」 といった講談調の、 読者の共感を主人公 (=探偵) に引き寄せるための手法か。 それとも、 「私」 は探偵の愛人か、 ここではすでに死んでしまっているが。
木の肌に傷をつけて樹液をしみ出させる、 「ああ私の」 はそれに似た働きをしている。 何もしなければ円満に完結している詩に、 ここで朔太郎はわざわざ傷をつけている。 傷をつけて樹液は出たか。 出たと思う。 詩に味わいが増している。
この技法をとりあえず 「樹液法」 と言っておく。 それとも、 操作の主体を名称として、 カッターとかナイフとか、 あるいはカブトムシとでもするか。 「甲虫法」 ―― これも悪くない。
この技法は、 意味を乱したり、 あいまいにしたりするので、 作者の内面を隠すためにも使える。 悪用しないこと。
