三好達治が言う朔太郎詩の非論理性。 たとえば、 次の詩、
再会
皿にはをどる肉さかな
春夏すぎて
きみが手に銀のふおうくはおもからむ。
ああ秋ふかみ
なめいしにこほろぎ鳴き
ええてるは玻璃 (はり) をやぶれど
再会のくちづけかたく凍りて
ふんすゐはみ空のすみにかすかなり。
みよあめつちにみずがねながれ
しめやかに皿はすべりて
み手にやさしく腕輪はづされしが
真珠ちりこぼれ
ともしび風にぬれて
このにほふ鋪石 (しきいし) はしろがねのうれひにめざめむ。
皿にはをどる肉さかな
春夏すぎて
きみが手に銀のふおうくはおもからむ。
ああ秋ふかみ
なめいしにこほろぎ鳴き
ええてるは玻璃 (はり) をやぶれど
再会のくちづけかたく凍りて
ふんすゐはみ空のすみにかすかなり。
みよあめつちにみずがねながれ
しめやかに皿はすべりて
み手にやさしく腕輪はづされしが
真珠ちりこぼれ
ともしび風にぬれて
このにほふ鋪石 (しきいし) はしろがねのうれひにめざめむ。
「春夏すぎて」 と言ったかと思うと、 一行おいて 「ああ秋ふかみ」 と季節が飛躍し、 「銀のフォーク」 という室内のはずの光景が 「ふんすゐはみ空のすみに」 と広がってしまう。 《僅々十余行ばかりの間のこの出入はまことにあわただしい》。 しかし、 この非論理性にこそ朔太郎詩の本質があると三好は言う。 この本質と対比すれば、 「なめいしにこほろぎ鳴き」 とか 「しろがねのうれひにめざめむ」 といった象徴的語句は、 《舞台のそこそこに陳列された小道具の類にすぎない》。
朔太郎詩には文法レベルの誤謬も多い。 それらの効果として、 人称が狂う。 主体が入れ替わる。 時間が飛ぶ。 空間が歪む。 そういう狂いの生じた箇所に目をつけたのが、 以前の 「樹液の技法」 。 樹木にわざと傷をつける。 そこから樹液が染み出して、 やがて琥珀になる。 というようなことを自分は思ったのだが、 三好もこの意図的な論理の無視が朔太郎詩の本質とするものの、 核はほかにあるという。
山に登る
山の頂上にきれいな草むらがある、
その上でわたしたちは寝ころんでゐた。
眼をあげてとほい麓の方を眺めると、
いちめんにひろびろとした海の光景のやうにおもはれた。
空には風がながれてゐる、
おれは小石をひろって口にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。
おれはいまでも、 お前のことを思つてゐるのだ。
山の頂上にきれいな草むらがある、
その上でわたしたちは寝ころんでゐた。
眼をあげてとほい麓の方を眺めると、
いちめんにひろびろとした海の光景のやうにおもはれた。
空には風がながれてゐる、
おれは小石をひろって口にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。
おれはいまでも、 お前のことを思つてゐるのだ。
見たとおり、 途中で人称の入れ替わる非論理的な詩だが、 核は最後の一行。 これを言うための前準備として、 朔太郎は日常的合理性をいったんばらばらにする。 《いはば彼には、 彼の外なる世界一般の否定が、 彼の素朴なリリカル・クライ (叙情的叫び) の位置づけとして、 まづ最初に手続き上必要であつた》。
なんでそんな手続きが必要だったのかは、 三好は言ってない。 内面的なことはおくとして、 時代的には、 もう抒情を抒情のまま素直に歌える時代ではなかったのだろう。 今になって読むと三好達治の詩は、 読んでるこちらが恥ずかしくなるところがあるのに、 朔太郎にはそれがない。 《シュール・レアリズムなどといふものは、 まだフランスに於てさへ唱へ出されてゐなかつた》 (三好) 時代に、 朔太郎は非論理性を詩に持ち込んだ。 その新しさは今も生きていて、 現代に届いているのではないか。
