外見がどれだけ変わろうとも、 物語の役目は常に同じだ。 「無意味な人間の生に意味を付与する」、 これなのだ。 ゆえに大衆に支持される物語のテーマやプロットは、 ある特定のパターンしか存在しない。 (P.188)
「ゆえに」 のつながりがちょっと心細いが、 前半は同意できるし、 後半も同意できそう。
人間の生には本来、 何の意味もない。 人間は DNA のコードに従ってただ生まれてきて、 そして死ぬだけである。 自意識による自己突っ込みの無限連鎖の果てにニーチェが発見したように、 生は無意味なのだ。 さまざまな苦悩や障害や挫折が人間を襲うが、 それらは常に不条理で、 意味のない不幸なのだ。
だが人間は、 不条理な不幸、 意味のない苦境には耐えられない。
(…)
ゆえに、 人間は自分の過去と現在と未来を 「物語」 として編纂しなければならない。 (…) 聖書や仏典は、 そのような 「私の物語」 を編纂する際のルールブック、 手引書、 指導書なのだ。 (…) 人間が味わう苦悩は、 決してまるきり無意味な苦悩なのではない。 そういう保証を、 聖書という物語の雛形が個人に与えてくれるのだ。 (P.198-199)
物語とは、 人が生きるためのフレームワークであると。
いちいち自分 (や他の人) が生きることの意味を分析なんかしてられないし、 そうかといって、 生なんて無意味だもんねと笑って過ごすわけにもいかない。 まあ、 ときどきは笑うにしても。 だから人は物語を必要とするのだと。
なぜケータイ小説は売れるのか本田 透
(ソフトバンク新書063)
《誰もがケータイを持つ時代に咲いた徒花か、 それとも新しい文化の始まりなのか、 ケータイ小説を読まない人でも、 これ一冊で分かる画期的な内容》 ―― 裏表紙のコピーから
