[文学] 論理がコミュニケーションを妨げる
百鬼園先生曰く、降伏後間もなく亜米利加から来た爆撃調査団に呼ばれて行つた時、 爆弾と焼夷弾とどちらがこはかつたかと云ふ質問を受けた。 私が、 焼夷弾の方がこはい事は解つてゐるけれども、 実際その時になれば矢つ張り爆弾の方がこはいと云ふと、 話しが縺れて中中通じなくて困つた。
―― 「沙書帳」
これだからなあ
だめですよ、 先生
コミュニケーションというのは
結論をつないで行くものであって
経緯や背景やらを
同時進行で織り込んじゃったら
話は通じないとしたもんです
空襲を受けてこはいと云ふのは第一に生命の危険を感ずるからで、 命が惜しいからこはいのだとすれば爆弾の爆風などの為に死んだ人よりも焼夷弾の火に追はれて死んだ人の方が遥かに多い事を承知してゐる。 東京や横浜だけの事でなく漢堡 (ハンブルグ) だつてさうだつたでせう。 それはさうだがしかし爆弾の落ちて来る音を聞くと矢つ張りその方がこはい。 空襲よりは雷鳴がこはい様なものですと云つたら、 ますますこんがらかつて話しの締め括りがつかなくなつた。
言うそばからまたこれで
論理がコミュニケーションを邪魔しちゃう例ですが
こんな人、 あなたのまわりにもいませんか
話がわかりにくいとか回りくどいとか言われてる人
でも、 そのわりに
百鬼園先生の説明がすんなり
飲み込めてしまうのは
どうしてだろう
一病息災内田百閒
(中公文庫)
福武書店版の 『新輯 内田百閒全集』 を底本とするアンソロジー。 「沙書帳」ほかを納める。
巻末に吉行淳之介のエッセイ。
